昭和41年04月24日 夜の御理解



 御祈念前に、東さんがここでお届けをされます事の中に、今朝からお夢を頂いたという。そのお夢の中にいろいろ頂いておられる中に、自分の事は分からない、自分の事が分かるようになりゃ、まあ、一人前だというようなお夢を頂いておられますですね。確かにそうですね。人の事はわかっても自分の事はわからん。昨日、一昨日でしたか、豊美が、ここで私にいろいろ話すんです。先日ある教会の奥さんが、何かもう豊美に、その話しとうて話とうてたまらんというようなふうをされるそうですから、聞かせて頂いた。
 あなたんところにお参りよる○○さんな、ちょっとあの人ばかりは条件に及ばん、近所の評判の悪か事は、ばさらかち。もう、とてもそりゃ、ほんなこっちゃん、も、私どんが物言うと思うたっちゃ、すうと向こう向いてから、もう、妙な人じゃあるですばいあの人はと言うて、もう親子して一生懸命、豊美に言われるそうですもん。そして豊美が言うたち。本当にですのや、もう人ごとじゃありまっせん。
 も、自分のごと言われよるごとございます。なかなか人んことはわかっても、自分の事はわかりませんけんなち、言うたち、言うてから。そう言われるその親子の人がそげな風ですもん。物言おうと思いよると、向こうさいするっと、こう向くような人なんです。けれども、人の事はそげな風に分かる。もう本当にあの、けれども、お互いが心しなければいけませんですね。もう、とても近所のもんが言いよりますばの。
 あなたん方に参りよりなさる人は、椛目の金光様に参りよってから、どうしてあの人は、あげなふうに妙な人じゃろうかち皆が言いよるけん、まあ、いうなら、あなたまででん言うとくと。お父さんから言うち貰いなさいというような、言わんばかりに、その言われたという訳なんですよね。本当に、そういうておる、その人自身が、私から見ればです、そういう風な人なんですよ。なかなかやはり、自分の事はわからん。
 自分の事がわかるようになれば一人前だと。東さんが頂いておられる通りに、例えば、あの御神意をお伺いさせて頂くでもね、人の事はお伺い出来ても、自分の事がお伺いが出来ません。自分の事がお伺いが出来るようになったら、まあ、徳者と言われております。ですから徳者という人はね、もう、自分の事をいつも頂いておりますから、いつも自分を、禁句のところに置いておる。いつも自分をその慢心しない、大怪我のもとを作らない。いつも自分の歩いて行く道を間違えない。
 ところが中途半端の、例えば、お徳を受けた人達は、人の事はわかる。お伺いでもされりゃ、人の事はお伺い一つも出来るんだけれども、自分の事のお伺いがでけない。確かに、そんなもんだと思うですね。お互い、どうでも一つ信心させて頂くのでございますから、本当に人ごとじゃない、自分の事としてわからして頂かなければならん事が沢山ある。そこで私は、思うのですけれども、本当に、も、本当にこれは自分をね、惨めにするとか、自分を蔑むといったようなものではいけません。
 けれども、ぎりぎり自分というものがわからせて頂いたら、結局、私のような者がという事になる時です。だから自分というものがです、いつも本当にこげな事でおかげを受けられるはずがない。いいや、こげな事で、こんな私なのに、これだけのおかげを頂いて、勿体ないという時なら、間違いない時。同時にです、自分の周囲の誰れかれがです、人は悪口を言いなさるような人でもです。
 ああ、あの人に、あげな素晴らしいところのあるのにと、人が素晴らしく見える時なら、その人が正常な時、私はそう思うですね。もうとてもあの人はつまらん、とてもあの人ばっかりは条件に及ばん、信心しよってあげなこつで良かろうかち言うて、人の事ばっかりが目につくような時にはです。愈々自分が間違うとる時だと、まず悟らないかん。人がそれこそどこどこの奥さんじゃないばってんですね、あなた方に参りよってあの人はとてもほんに、そりゃもう条件の及ばん人ですばい。
 そりゃ私共だけじゃなかても、近所のもんがそげん言いよる、と言うてですほんなら、その人自身も私の知っておる限りでは、そういう人であるという事。自分の事はわからん。どうでも一つ、自分の事がわからして頂く。そしてその自分の神様へ向けておる心というものがです平常な状態、本当の状態である時にはです、本当に自分のようなつまらん者がという謙虚な態度、姿勢というものが自ずと心の中に感じられる。
 そして自分の周囲の誰もかれもがです、素晴らしいなというのも、例えば、家内なら家内を、ああしてまあ、このいわば(心やすう、物まぎれる。)子供なら子供、ここの先生方にでもです、御信者方でも言うんですよ。言うことは口では。けれどもとても、ほんなら私が家内なら家内のここだけに私は真似は出来ん。も家内の素晴らしさにいつも敬服しておるんですよ、私は。ほら、子供達の一人一人の上にもです、親よりも優っているものを持っておるというものをです、私は知ってるです。
 そしていわば、私という者が私のような私に、かくまでおかげを頂いてという、その勿体ないというものを感じれておる時、私は大体において、間違いない時です。自分の周囲が素晴らしく見える時、私は大体間違いのない状態の時だと言うことになるのです。できればどうでも一つ、自分の事がです、神様に、教祖は、あんな風にも仰っておられますですね。身凌ぎの出来る信心になれと仰るですね。
 自分の事位は、自分でお伺いの出来る位の信心になれよと仰るが、もう、そうなれたらいうならば一人前。人の事はわかっても自分のはわからん。自分の事がわかるようになったら、いうなら、信心が一人前だというふうに頂かして貰い。いつも自分という者を本気で見きわめさして貰い、そして自分の周囲の誰彼の上の、悪いところの見らんでも、その人の素晴らしい、自分にはない、そのところを見せて頂いて、自分の生き方の手本にもさして貰うような心がけが、信心をさして頂く上には必要じゃないでしょうかね。
   どうぞ。